明日はないかもしれない

 

このところ強くやってきてるフィーリングです。

記事を書いたのは4日ほど前ですが、このフィーリング、3月のワークショップ以降よりクリアになっているもの。

記事ではマイルドに書いているけど、実際には延々と繰り返している夢見状態に「いつまでそれを繰り返すのか、そんな時間はもうないんだよ」という感じ。

いろんなところで、何度も読んだり聞いたりしていることだけど、紛れもないとてもシンプルな事実として「明日は来ないかもしれない」。

それが〈分かっている〉ときだけはやっと目が覚めている感じ。

すぐにまどろみに入ってしまうのだけど・・・。

願わくば、起きていられる時間が長くなりますように☆彡

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春は気候の変動も大きく暖かくなったり、また肌寒くなったり、それでも桜前線も少し北上をはじめて、桜の花のあとには柔らかな若葉の色が目を惹きます。

私たち人間も、そんなふうに変化をしながら生きています。

新年度がはじまって、目標に向かってスタートをきった人もいれば、方向性が定まらず、思うように進めない感じがしている人がいるかもしれません。

順調にものごとが展開していくのを喜んでいる人もいれば、なにか焦りを感じている人もいるかもしれません。

そんないろいろな状況もすべて、それぞれにそこから生まれる理解があって、それは私たちの成長を促してくれます。

多くの人が経験していることだと思いますが、あとからふりかえると平易なときよりも、困難さのなかでの気づきはとても大きいものです。

今、自分がどんな人生のステージにいるのか、ちょっと立ち止まって見てみるとどうでしょうか?

それは、どんなふうに見えるでしょうか?

3月初旬、私はユニティインスティチュートのプラサードとアルヴィナによるサトルボディヒーリングオープンクラスの第7チャクラのセミナーに参加しました。

そのせいなのかどうかわかりませんが、ふと、自分の無意識の習慣に気づく瞬間が最近増えたように思います。

その最たる無意識の習慣は、「いかに自分のマインドが〈明日〉というものを前提に働いているか」というもの。

一日のどれくらい長い時間を、その夢見のようなことに使っているかに気づいて、我ながら呆れるのでした。

ただ、気づいたのに依然としてセンタリングができていない漠然とした心地悪さがありました。

そんな数日を過ごしていたあるとき、車を運転していると突然「明日は来ないかもしれない」という考えがやってきました。

いえ、考えがやってきたというよりも知ったという感じでしょうか。

そう、明日は来ないかもしれないのです。

すると、なんだかとても落ち着いてそれまでの心地悪さがすーっと消えました。

中心に帰ってくることができたみたいです。

もし明日が来ないとしたら、今をどんなふうに生きたい?

どんなふうに在りたい?

・・・という自分への問いかけと、その答えが間もなくやってきました。

内側からきた答えは〈愛〉という本質でした。

OSHOは講話のなかで・・・

「この世を鉄道の待合室のように使ってはいけない。

 あなたがここに生まれてくる前よりも、

 この世を少しでもきれいにしてから去りなさい」

・・・と語っていますが、そのとき、ちょうどそのように感じられたのです。

なにか美しくあることへの希求―表面の美しさではなく、

人が内包する本質を生きるときの美しさへの希求です。

世界の情勢を見ても、

最近はとんでもないスピードでたくさんのものごとが変化し、

いったいどのように転ぶか見当がつかず、

しかもその結果は大きく異なってくる―

そんなことも、こうした感覚を引き出す要因だったのかもしれません。

「明日は来ないかもしれない」ということを忘れて、

また夢を見ている時間の方がまだまだ長いけれど、

ほんのわずかな瞬間でも目を覚ますことができたらいいなと思います。

こちらは今朝は少し空気が冷たいけれど、晴れて気持ちのいい一日になりそうです。

これからはじまる一日、

どれだけ「明日は来ないかもしれない」というシンプルなことを忘れずに過ごせるかな。

緑の柔らかい葉をつけている桜に挨拶をして、

昨日見つけた、庭の冬を生き延びたホップにも挨拶をして出かけようと思います。

みなさんも、どうぞよい一日をお過ごしください。