本質を感じることから始まる神秘への旅

ユニティインスティチュートのブログに書いた記事です。良かったら読んでください。


私たちの中にある、たくさんの本質、それを生きることを、ユニティインスティチュートのプログラムは教えてくれます。


例えば〈信頼〉という言葉の意味を私たちは知っています。

では、言葉の意味を知っていることと、それを生きることはどう違うのでしょう?


普段、その言葉は「○○を信頼する」というように使われることが多いと思われます。


「あの人を信頼する」

「この人は信頼できる」

「その物は信頼が置ける」という具合です。


そこには自己があり対象があって、信頼は行為として使われています。


本質としての〈信頼〉に触れるとき、それは行為ではありません。

それはまさに〈質〉であり、その質に触れる時には感覚が伴います。


私たちは日々、たくさんの物事を考え、片時も頭が休まる暇がない程です。

そして考えているとき、私たちはあまり‘感じる’ことをしていません。


「あなたは何を考えているの?」 と尋ねられると、きっと何かしら思考を巡らせていたものを伝えられるでしょうが、「あなたはどう感じていますか?」と尋ねられると、咄嗟の答えに窮するかもしれません。


試しに今、「私は今、何を感じているのだろう?」と問いかけると、どんな答えがやってくるでしょう? 問いかけた時に、何が起こったでしょう?


頭が忙しく働いている時には、時々思い出して、自分にこう問いかけるようにしています。

「何を感じてるの?」


すると幾つかのことに気がつきます。

考え事をしているときには、額の辺りにエネルギーが集中して、なにか視野が狭くなる感じがあること。

呼吸がとても浅くなっていること。

ほとんど息をしていることを忘れているようだということなどです。


「何を感じているの?」と自分に問いかけると、まず、大きく深い呼吸がしたくなります。

前のめりになっていたのが、ふと立ち止まる感じがします。

身体があることを思い出して、身体の感覚に気づきが向かいます。

頭に集中していたエネルギーが全身に分散されて、もっと全体的に見渡せるような感じがします。


私たちは‘感じる’ということを無意識に避けていることもあります。

それは危険なことだと思っているからかもしれません。

悲しみや痛みを感じてしまうと、とても辛いから。

あるいは歓びや他の感覚であっても、感じることは、もっと生命のエネルギーを解き放ちます。そして、そこにはセックスエネルギーも含まれます。

そうした生命エネルギーは圧倒的なので、私たちはそれを恐れ、故に‘感じる’ということに対してコントロールを強いてしまうのかもしれません。


考えているとき、私たちは今、ここにはいません。

いつかどこかにいて、ここにはおらず、自分自身から離れてしまっています。

‘感じる’とき、私たちは再び自分自身に戻ってきます。

自分自身に戻るとき、私たちは、より生に開いています。


少し前に、友人がポーランドのリズボンであったことを話してくれました。

それはある、クラスが荒れていて子供たちが多くのストレスを抱えている学校でのことです。

その学校に通う子供を持つ瞑想者の母親は、学校に申し出て、こども達にグループワークをすることにしました。

その結果は素晴らしいもので、こども達の表情にも大きな変化が現れ、クラスの雰囲気も改善されたそうです。その様子はフィルムに収められて、教育委員会での会合で上映されて大きな評価を得たということです。涙を浮かべてそのフィルムを見ていた参加者も多いということでした。


そのショートフィルムを見せてもらったのですが、そのエクササイズは、こども達に‘感じる’チャンスをたくさん与えていました。


前に立っているクラスメートにゆっくり近づく、そして相手が離れて欲しいと言えば後退する、その時にどんな感じがするか感じてみる。


音楽とともに教室を歩き、もしクラスメートに触れたら、それがどんな感じがするか見守る。


目隠しをして、音を聴き、触れ、味わう。


クラスメートの耳元で「あなたは美しい」と囁く…などです。


こども達はフィードバックを寄せていましたが、それは、本当に美しいものでした。


「軽くなって楽になった。他の人への尊重を感じ、やさしさ、つながり、友情を感じた」


「他の星にいるみたい、こんな体験はこれまでしたことがないから。クラスメートとの交流は楽しかったし、これまで気がつかなかったことにたくさん気がついた」


「落ち着いた」「楽になった」「繋がりを感じた」というフィードバックがたくさんありました。こども達は、的確に変化を感じ取っていました。


自分自身に寛いていない時、緊張がある時には、私たちは自分を守ろうとします。

すると気づきは狭くなり、自分は分離された存在として捉えてしまいます。

自分に寛いでいると、気づきは広がり、寛ぎの中で他者と共に在ることができます。


こども達はエクササイズを通して〈寛ぎ〉〈安らぎ〉という内なる本質に触れ、多くのことを体験として知り理解し、他にもたくさんの内なる本質を感じていました。



‘感じる’ことを通して内側に気づきを向け、本質に触れることは、甘美な体験です。


例えば、〈信頼〉という本質に内側で出会う時、私という個人は〈信頼〉の海に包まれているようです。


本質は私の内側にありながら、私を満たしてくれます。

本質は小さな個としての私も他者も、存在もすべてを満たします。

そして本質を感じるにつれ、個としての私は消えていくようです。


Oshoは「生は解かれるべき問題ではない、それは生きられるべき神秘だ」と言います。


『本質の目覚め』は、その神秘への旅の誘いでもあります。

ワークショップでは、各々がその旅に踏み出します。その喜びや困難さを分かち合うことは、旅の大きな支えとなります。


ワークショップで共に過ごした後、それぞれが再び日常に戻って、まさにその生を送るわけですが、そこで味わった体験は、それまでの日常に全く新しい色彩をもたらすことになると思います。

どうぞ、そんなマジックを体験してみてください。


広島では毎月第一日曜日に月例瞑想会、第2第4木曜日午後にハート瞑想・ヴィギャン・バイラヴ・タントラからの瞑想を紹介しています。


Songs of the Heart~ハートの響きに耳を澄まして~

10月4日午後1時~3時半

藤本美智子さんのライア演奏と歌とともにハート瞑想をします。