本質から生きることは、何でもない日々を美しくする

少し前、買い物をした帰り、車の運転をしていたときのことです。


押しボタン式の信号で一時停車、その横断歩道をおじいさんが犬を連れて渡っていました。


だぶだぶのズボンをはき、かなりくたびれた大きめのシャツを着て、靴もすっかり擦り減ってしまっていて、おぼつかない足どりを気にかけるようにゆっくりと歩いていました。


そして手には飼い犬を繋いだリードを持っていました。その犬も、随分年をとっている様子で、ところどころまだらに毛が抜けています。そして少しふらつくようにヨタヨタと歩いています。


横断歩道の真ん中ほどに来たとき、おじいさんは少し立ち止まって、犬が追い付くのを待っていました。そしてリードを持つ手に少し力を入れ「さあ、早くおいで、渡らなきゃ」と犬に合図を送るようにして、また一緒に歩いて渡って行きました。


横断歩道を渡りきったところで、おじいさんは屈んで犬の首輪からリードを外しました。その背中をポンポンと叩き、そしてまた少し足を引きずるようにして、犬と一緒に歩いていきました。年老いた犬には、リードをつけていることも負担なのでしょう。おじいさんは穏やかな笑顔でした。


信号が青になって、また車の運転を始めたのですが、その光景がなぜか胸を打ち、前が見えなくて困るほどにぽろぽろと涙が流れてきました。不意打ちを食らったみたいに、ほとんど嗚咽をこらえるようにして、家まで車を走らせました。


なぜ、その光景がそんな風に涙を誘ったのだろうか、と後で自分自身に問いかけてみました。はっきりと説明できるものではないのですが、その光景は、とても美しく尊いものに触れた時の涙を誘ったのです。


おじいさんは足が悪いようで、早く歩くことができません。連れの犬もまたゆっくりしか歩けない。歩道をゆっくりと、自身の足取りに注意しながら、慌てることなく犬を気遣いながら渡り、そして渡りきったところでリードを外してあげる、その全ての行動にある慈愛に触れたのでした――慈愛を感じた、と意識する間もなく、私の内側に圧倒されるものがあって、それが涙となったのです。


こんな風に心が動かされることを「感動する」と言います。

感じて動くものが内側にあるということ――それは、このような光景であったり、絵や音楽のような芸術であったり文学であったり、見たり聴いたり読んだりすることで、私たちの内側にあるいくつもの本質が脈動すること…。


人が本質と共に在るとき、日常のどんな些細な行為の中にも神聖さと美がある、そしてその神聖さと美に触れた時に感謝が湧き上がります。


先だってのような光景に出会うとき、自分を省みて、はかなく感じてしまいます。

いったいどれほどの時間を、一日の中でそのように過ごしているだろうか、と。

僅かでもいいから、そのように過ごせたらと思うのです。


そして、そんな風に思う時、自然と、ごく当たり前のささやかな事柄――たとえば部屋を片付けたり、お皿を洗ったり、洗濯物を畳んだり、花に水をやったり――そうした小さな事柄を、気づきをもって丁寧にしよう、と思うのです。


すぐに忘れてしまうのですが、思い出しては、何度もそう思うのです。


本質を生きること、それは日々のさりげない一瞬一瞬を、なにか神聖なもの、美しいものにするアートだと思います。