私のこと

 なぜかふと、自分のことを書いてみようと思い立ちました。そんな気持ちになったことがとても不思議です。私が瞑想の師と出会ったことや、サトルボディヒーリングやエッセンシャルライフコンサルティングのセッションをするようになった経緯。おそらく、書くことが何か自分のステップを踏むことになるのだろうと、この不思議な欲求のままに、思いつくままに書いてみようと思います。


 子供のころから、自分はなぜここにいるの? なぜ生まれてきたの? 死とは何? 生とは何? 私とは何? 真実とは何? その答えを探していました。そうした疑問を親に尋ねると、いつも「変なことを考えるのはやめなさい」という返事が返ってきました。母からは「変な子」と、いつも言われていました。周りの大人に尋ねることができず、本の中に答えを探し始めました。そうした疑問の答えは、いわゆる宗教の中にあるのだろうと思い、自分は寺に入るか、修道院に入るのだろうか、とも思っていました。仏教書や聖書、読めそうな本を読んでは自分なりに理解しようと努めました。

 

 高校生の時には同じクラスにクリスチャンの女の子がいて、授業の始まる前に聖書のことを教えてもらったりもしたのですが、聖書、仏教書、他の宗教書を読んでみても、自分が求めている答えを見つけることができず、それでは、哲学はどうだろう、と、また読めそうな哲学書を読み始めましたが、それは崇高なマインドゲームのようでした。そのゲームの向こうには絶望が待っているようでした。唯一何か内側で動くものがあったのはニーチェで、「ツァラトゥストラかく語りき」は大切に読みました。

 

 私の読書はとても感覚的なものなので、論理的な解釈には頭がついていきません。そんな私は宗教書や哲学書よりも、むしろ詩などの文学の中に慰めを見出していました。少なくとも、文学の中には、自分が抱えていた問いかけがあったからだと思います。

 小中学生の頃に心を支えてくれたのはヘッセ、高校から大学ではリルケの「マルテの手記」、そしてニーチェやドストエフスキーやトーマス・マンがいつもそばにありました。大学進学時、文学を専攻することに決めた時、「一生、問いかけへの答えを求め続けよう、死ぬまでに答えを見つけよう」と静かに心に誓っていました。

 

 京都の大学に進学して3年生の時に、教授のひとりからOSHOの本と瞑想を紹介されました。最初に手にした本の背表紙には「生は解かれるべき問題ではなく、生きられるべき神秘だ」とあり、その言葉はまさに、私の中に飛び込んできました! それはとても強烈な体験で、私の人生を大きく変えました。


 生まれてこのかた、私は解かれるべき問題として〈生〉と向かい合っていました。部屋の中で分厚い書物に顔をくっつけ、一生懸命書かれていることの中に答えを探していたのに、ふと顔を上げて窓の外をみると、燦々と光が差していて、木々が緑美しく鳥たちが囀っていて、命がそこにあるのに初めて気づいた、そんな感覚でした! そしてドアを開けて、その神秘の中に踏み出していこうと思いました。

 初めて体験した瞑想はクンダリーニ瞑想という、夕方に行われる瞑想で、何か分からないけれど、とても心地よい感覚に包まれました。当時、京都にあった瞑想センターに時折通っては瞑想をしていました。そこには人生経験の豊富そうな、とても自由な雰囲気の年上の人達がたくさんいて、女子大生の私は少し気後れしながら、そこにいましたが、一生かかるかもしれないと思っていた探求の道を灯してくれる灯を見つけたという、その確信が揺るぎなく私を支えてくれていました。


 私はまた、このOSHOという人に会いたい、と強く思いました。当時、1980年前半、OSHOはアメリカにいて、西洋諸国からも大勢の人々が彼のもとにやって来ていました。大勢の心理療法士たちも、新たな領域を開いていました。禅が西洋に紹介され、関心が高まり、心理学においてもそういった東洋的アプローチを取り入れる動きが出ていた時代でもあったと思います。情熱的で誠実で愛にみちた沢山の優れたセラピストたちがいて、そのサイコセラピーと瞑想の融合を体験することは、自分を見つめる上でとても助けになりました。一つ一つ、自分の中で絡まっている糸をほぐしていくように、そして結び目ができた原因を理解していくように。ブレスセラピー、プライマルセラピー、バイオエナジェティック、数多くのセラピー、そしてヴィッパサナなどの東洋古来の瞑想法、また東洋のみならず、西洋や中東、世界中の古来よりの様々な瞑想法、そして現代人のためにデザインされたアクティブな瞑想を数多く体験することができました。(私が初めてしたクンダリーニ瞑想も、このアクティブ瞑想の一つです)。

 

 アメリカ、そしてインドにも渡り、そうした瞑想やメディテーティヴセラピーを学ぶことは、生の神秘の旅でした。その旅はゴールを目的としてはいません。今も続く生という旅そのものです。


 さて、ある程度の期間日本を離れることは、当然少しばかり変わった日常を送ることになります。両親はそんな娘に間違いなく困惑していて、「不自由なく育て、不満もないはずなのに、何故そんなところに行って、そんなことをしなければならないのか?」といつも言っていました。旅先からはよく手紙を書いて送りましたが(今のようにインターネットはまだ発達していなかったので!)、インドという異郷で暮らす娘が心配で仕方なかったとも思います。私の20代、30代はそのように、地理的にもあちこち旅をしながらの経験が大きかったように思います。


 OSHOとの出会い、そこで体験したたくさんのことは、とても簡単には書けないので、また機会を改めて記したいと思います。


 向こうでは、様々な瞑想やセラピー、ボディワークを体験し学ぶことができるマルチバーシティというものがありました。ちょうどユニバーシティ(大学)のように、数多くの学びができる場所です。また、気づきを持ちながら様々な仕事をするプログラムも用意されていて、そうした仕事を体験しました。そこはまさにインターナショナルな環境です。日本で通用することも向こうでは通用しません。それぞれの国には独自の国民的条件付けがあり、そのようなインターナショナルな環境の中でワークすることは、ものごとの見方を根本から揺さぶり、深い洞察を与えてくれる、またとない機会でした!


 ただ、問題は日本での仕事でした。そのギャップの大きさをどうするのか、それは大きな課題でした。家庭教師や塾の講師、子供英語の講師、と、教育畑で長く働いていた私は、自分が一番大切にしている瞑想性を周りの人々と共有するのは難しいことだと感じていたのです。

 その思い込みには、母との関係が大きく反映していました。母は瞑想や瞑想をする私を毛嫌いしていましたから! いつしか、瞑想をしていることを知るや、人は私との間に距離をおくだろう、という信条が作られていたのです。

 

 日本で働きながら、そうしたプライマルに向き合うことが続きましたが、10年ほど前から受けたサトルボディヒーリングのトレーニングは、そのプロセスのとても大きな助けとなりました。

 この素晴らしいエネルギーワークは、長年をもって形成された大小様々な信条を解放する、とても大きな力をもっています。母とのことは、子供の私が感じていた疎外感や関係性における壁を見ていく長いプロセスでしたが、いくつものヒーリングのエクササイズの中で、次第に愛への枯渇感は癒され、知らない事柄へ向かう時の母の恐れがそこにあったことも理解しました。

 父は学者で研究者、教育者でもありましたから、私が教育分野で働くことについては理解があっても、瞑想やセラピーなどに関わっていることには、かなり懐疑的でした。しかし、晩年には、私によくセッションのことを尋ねてくれ、父なりに理解してくれようとしていました。父は私が幸せであることを願ってくれていました。それは母も同じで、両親からの愛がいつもあったことに感謝が絶えません。

 

 父は数年前に他界しました。病状が悪くなってきたころ、私は頻繁に実家を訪れて看護していました。できることを思い残すことなくしてあげたいと思っていました。酸素吸入器をつけた父は、腹と足先から空気が漏れているようだと言うことがありました。プラーナが抜けていくのを感じていたのでしょう、傍で父の腹や足裏に触れ、ただそこに寄り添っていることが安心を父にもたらしたようでした。非常に論理的な父でしたが、晩年、そうしたデリケートな状態にあって、エネルギーに関しても繊細な感受性が開いていました。

 あるとき、父は私にサトルボディヒーリングをしてくれるように頼みました。母には終わるまで部屋に入って来ないように告げて。ヒーリングの中では、エネルギーに触れている場所を、父もよく感じていて、その変化を告げてくれたりしていました。「さっきまで呼吸が苦しかったのに、今、左からクールな空気がすっと通り抜けた」などというように。そして、「自分たちが理解してこなかったお前の瞑想が、今、自分を助けている」と言いました。心から、心から私はありがたく思い、そして涙しました。自分がそのときにできる最良のことができたのであれば悔いはないと思い、本当の親孝行ができたように感じました。父からの言葉は、私が受け取った最上の贈り物でした。


 サトルボディヒーリングのティーチャーの一人であるリーラは、あなたが誰であるかを表明しないとあなたを探している人があなたを見つけられない、と私に言いました。リーラは30年前に最初に私にハートについて教えてくれた、とても大切な人です。


 サトルボディヒーリングのトレーニングを受けるきっかけは、アロマテラピーを通してやってきました。

 海外にいる時に、セルフケアで欠かせなかったのは精油です。そのリラクセ―ション作用は絶大ですし、抗菌性、鎮痛、免疫賦活など、あらゆる局面で非常に役に立ちました。最初に精油を紹介してくれたのはアメリカ人のメリッサ。とても美しくキュートで、情熱的で、頭脳の明晰な素敵な女性でした。同じ年で、私と同じように小柄で、私たちは隣同士の部屋に住んでいて、仕事の上でも親しくしていました。

 日本に戻ってからは、精油の成分を詳しく学び、またアロマテラピーの講師も務めるようになりました。施術も始めたのですが、ボディにタッチするとき、あるいはする前からクライアントのエネルギー情報がやってきて、それに対応するには、ボディトリートメントでは十分ではありませんでした。それで、エネルギーについて理解を深めたいと思い、ちょうど日本で初めてトレーニングが始まるところだったサトルボディヒーリングのトレーニングを受け始めたのです。


 サトルボディヒーリングは素晴らしいヒーリングです。ファシリテーターはハートからクライアントに働きかけます。まだ一般的ではないかもしれませんが、今は、このサトルボディヒーリングをできるだけ多くの人に体験してもらいたいと思っています。


 エネルギーを理解すること、瞑想といったものは、何か特別なことではなく、非常に実践的な地に足がついた体験です。そうした事柄に対して、いろいろなイメージや観念があると思いますが、内なる科学は、全体としての人を理解するにあたって不可欠な要素です。私たちには肉体のみならず、思考も感情も感覚もあるのですから。


 さらに新しいステップはエッセンシャルライフコンサルティング(ELC)を始めたことです。ELCについては書籍『悟りのシンクロニシティ』の中に紹介されていて、定期的にこの本の読書会も提供しています。ティーチャーのリーラ、プラサードとアルヴィナによって創られたELCは、私たちが内なる資源を生かして自分自身を生きることを助けます。

 人には内面もあり、また社会の中での生活があります。ELCはそれらを分離したものではなく、統合したものとして、どちらも豊かに生きるということを助けるものです。このコンサルティングを提供するということは、もちろん自らもそれを体現してゆくこと、これは大きな、積極的なステップでした。

 

 このようなエッセンシャルライフコンサルティングが誕生し、それが迎えられていることは、何か時代性をも感じさせます。いわゆる「スピリチュアル」とされる事柄が、より自然に自分たちの生活の当たり前な一部なのだという認識が今ではかなり広がっているからなのでしょう。このELCを分かち合えることは、本当に歓びです。折に触れて、このELCの体験イベントが出来ればいいなと思っています。(昨年の10月にELCとサトルボディヒーリングの紹介イベントとなる「Alchemy of the Heartハートの変容」をしました!)


 とてもざっくりと、これまでの個人的な経緯を思うままに書いてみました。今日はこれで、おしまいにして、これをアップすることにします。サトルボディヒーリングやエッセンシャルライフコンサルティングのことも、また折りに触れて書いてゆきたいと思います。